東谷要覧解説8(主編(一)から(四))

2020年01月30日

さあ、いよいよ主編に入ります。主編は(一)から
(十四)まで書かれています。
(一)位置、広さ (五)人情・風俗  (九)衛生 (十三)団体整理
(二)地勢     (六)戸数人口   (十)産業 (十四)経済
(三)地味     (七)教育      (十一)土木
(四)交通     (八)本村の学校  (十二)納税

今回は(一)から(四)までです。要約すると南は金辺
峠、東は平尾台  西は福智山山系に囲まれ中央を
紫川支流の東谷川が流れる中山間地で決して広く
はありませんが稲作を中心とする農業に適した
地域です。交通は南北には東谷川に沿うように
古くは香春街道(秋月街道)が大正年間には小倉
鉄道が開通していました。東西は古くから東は平
尾台を越えて苅田行橋へ抜け、西は中谷との境の
櫨が峠を越えてさらに合馬、田代・畑と旧筑前国
へ抜けていました。

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Posted by メドウおじさん at 19:19Comments(0)東谷(北九州)の紹介東谷要覧

紫川流域の製茶事情

2020年01月28日

紫川流域に当たる東谷を含む三谷地域では自家
用のお茶を各家庭で作り飲んでいたことは以前書
きましたがもう少し詳しい事情を知りたいと思い調
べていくと旧東谷村時代(明治から太平洋戦争の
前後まで)園芸作物として柿、ミカン、ビワの作付け
を奨励していましたが本格的なお茶の生産につい
ては記載がありません。そこでもう少し範囲を広げ
て、旧企救町(紫川中流域で桜橋以北、城野あたり
まで)で郷土史を研究されている松本洋一氏の力
作の「新企救風土記(旧企救町管内の歴史物語)の
増補改訂版」の増補部分の7pに写真付きで守恒団
地が出来る前(昭和の30年代ごろまで)は守恒団地
周辺の丘陵地ではお茶畑が広がっていました。著者
の了解を得ていないので写真をのせるわけにはい
かないのですが新企救風土記の表紙写真を載せて
おきます。一度現地を詳しく調べてみたいと思います
。どこかに今でもお茶畑の痕跡があるかもしれません。



  

Posted by メドウおじさん at 20:58Comments(0)東谷(北九州)の紹介

キンカンの砂糖煮

2020年01月27日

もう、長い間放置されていたキンカンの実を頂き
ました。いつもならそのまま生食するのですが今
回は砂糖煮にしてみました。ちょっと量が少なめ
だったので庭のキンコウジの皮と果汁を絞って量
を増して砂糖で煮詰めました。私はキンカンは胃
の不調時に一個かじると復調するので昔からとき
どき庭の実を採っては齧っていましたが、数年前
に枯れ死したのでそれ以来不自由していました。
砂糖煮にして冷蔵庫で保存しておけばしばらくは
大丈夫なので重宝しています。奥さんにも好評だ
ったのでまた作ろうと思います。




長い間放置されていたキンカンです。
生で食べても美味しいです。




キンコウジの果皮と果汁と一緒にキンカンを砂糖煮していきます
胃の不調、風の引きはじめにも有効です。


  

Posted by メドウおじさん at 18:28Comments(0)食べ物果樹

早すぎるエンドウ豆の開花

2020年01月26日

今年のエンドウは異常なほどの暖冬で年末には
もう、白い花が咲いていました。エンドウは開花す
ると一気に耐寒性が低下するのでこれからやって
くるかもしれない寒波や放射冷却による降霜が
心配です。現に2年前は3月の遅霜で開花真っ
最中のエンドウが軒並み枯れ死して、ほとんど
全滅してしまいました。半円のビニールトンネル
を被せれば有効かもしれませんができるだけ
自然状態で育てたいのでそこまでやる予定はあ
りません。とはいえむざむざ枯れ死するのを
座視するわけにはいかないので追加の種豆を
まいておきました。今からの種まきだと成長が早熟
しがちなので収量は減りそうですが、全滅よりは
ましなので一袋分播いておきました。



エンドウが早くも花を咲かせています。ちょっと早すぎで霜枯れが心配です。

  

Posted by メドウおじさん at 12:30Comments(0)食べ物

のらぼう菜の成長

2020年01月24日

昨年はハムシの攻撃で全滅したのらぼう菜です
が今年は今のところそこそこ順調に成長していま
す。今年は菜の花の類は地元に自生している
菜の花、種で購入した菜花、それとのらぼう菜で
す。自生の菜の花と種で購入した菜花は発芽が
悪く数えるほどしか成長していませんがのらぼう
は発芽率も良くその後の成長も順調です。先
日間引き菜として漬物を作りました。のらぼう菜
は苦みが少なく食べやすいと聞いていましたが
本当に苦みがなく食べやすかったです。今の間
引き菜サイズののらぼう菜を見ると自生の菜花
というよりキャベツの幼株に近い見た目です。
のらぼう菜は花芽だけでなく若いものは本体も
炒め物などで使えます。来年はもっと数を育て
たいと思います。


のらぼう菜の幼株です。このサイズならまだ柔らかく食用で使えます。




こちらののらぼう菜はタイプが違うのか葉が赤みがかっています



こちらは地元で自生している野生の菜花の実生苗です。



左がのらぼう菜で右が自生の和種の菜花です。


キャベツの幼株です。のらぼう菜は元は西洋菜花の一種でジャバ菜と呼ばれたものを
江戸時代から関東方面で栽培されたものです。葉の質感がキャベツと似ています。

味もキャベツに似ている気がします。
  

Posted by メドウおじさん at 20:04Comments(0)食べ物

渋抜き柿の頂きもの

2020年01月22日

同じ町内の知り合いの方から渋を抜いた柿を頂き
ました。渋柿の渋抜きは干したり、焼酎や塩漬け
にしたりといくつか方法がありますが私は干し柿
以外はあまり好みではありませんでした。という
のも渋は抜けますが果肉が中途半端に柔らかく
なりがちでした。ところが今回頂いたものは果実
はそこそこ硬く(甘柿の富有柿くらい)で渋みは綺
麗に抜けて程よい塩味と甘味のバランスが抜群
でお茶うけにピッタリでした。美味しくてついつい
写真を撮るのを忘れ、気が付いたら最後の一コ
になっていました。(笑い)
今度こっそり製法を教えてもらい来年は自分でも
作ってみようと思います。




頂いた渋抜きの柿です。



渋柿なのでゴマはありませんが渋がきれいに抜けて美味しいです。


  

Posted by メドウおじさん at 19:10Comments(0)食べ物果樹

フキノトウ2020

2020年01月21日

先日佐賀の北川まりこさんが、フキノトウがもう、お店
に並んでいたと書いていらしたので、もしやと思い、毎
年採取している場所に行くとまだ小さなものでしたが、
フキノトウが出ていました。まだ出て1日か2日かしか
たっていないと思います。食べるには少し小さいですが
このくらいだと灰汁も弱く食べやすいです。今回は半分
を天ぷらに、もう半分は定番の蕗味噌にします。調理
は天ぷらは奥さんが、蕗味噌は私の担当です。フキノ
トウは今から3月の初めまで場所を変えて次々と
出てくるので毎年3,4回蕗味噌を作っています。フキ
ノトウが出てくると山菜のシーズンの始まりで今年も
楽しみです。


地上に顔を出したばかりのフキノトウです。今回はフキノトウと天ぷらを作ります。




まだ地上に顔を出したばかりなので、灰汁も少ないので熱湯で10秒ほど加熱して
すぐに冷たい流水で洗い、硬く絞って小さく刻みます。



味噌に日本酒と味醂を適量加え、よく練って、そこに刻んだフキノトウを加え
鍋で箸でかき混ぜて焦げ付かないように加熱します。


味噌が硬くならない程度で火を止めて出来上がりです。



新鮮な油で温度低めで揚げます


今回はカニカマも一緒です。フキノトウの天ぷらはつゆより自家製の天然塩で頂いた方が美味しかったです。


  

Posted by メドウおじさん at 19:02Comments(0)山菜

冬番茶づくり2020-2

2020年01月19日

茶葉と小枝に分けて一週間籠網に入れて温度変化
のない温度低めの暖房ない部屋で乾燥させます。一
週間すると茶葉はほぼパリパリに乾燥します。これが
夏場だと自然発酵が進み半発酵茶のウーロン茶モド
キになりますが今の季節だと発酵せずに水分だけ抜
けます。この状態でもお茶として飲めます。緑のきれ
いな色が出て野生の茶葉の香りが強く出ます。少し
青っぽい草の香りに近いのでちょっと抵抗がありま
す。それでストーブの天板の上で3日ほどさらに過熱
しながら乾燥させます。これで青臭さは飛んで番茶
本来の香りが出て一応出来上がりですが私は更に
茶葉と小枝を乾煎りしてほうじ茶に仕立てて飲むのが
好みです。ほうじ茶は茶葉を細かくして作りますが
今回は茶葉をそのまま乾燥させた山茶も作りました。
山茶を飲むときは適量を煮出して頂きます。冬の寒い
日は香りのよい手作り番茶に限ります。


生茶葉を一週間網籠で乾燥させます。


手もみで揉んで細かくします。



ほうじ茶にするにはさらに乾煎りしていきます。



小枝の方も乾煎りしていきます。



小枝焙じ番茶の出来上がりです



早速淹れてみました。ホッコリと冬の夜にはほうじ茶が一番です。

  

Posted by メドウおじさん at 18:27Comments(0)和ハーブ

冬番茶づくり2020-1

2020年01月18日

11月に作った秋番茶がなくなったのでもう一度茶葉
を摘んで番茶のほうじ茶を作ることにしました。東谷
を含む三谷地区は昔から自家用のお茶は各自の
家庭で作っていました。そのためか、今でも畑の端
っこや庭の隅や、裏山の林縁などに今でも当時
(明治から昭和の初めごろまでの茶の木の生き残
りがわずかに残っていて、たまたま私の家とその周
りには古い茶の木が残っています。私はその茶の
木の茶葉で春の一番新茶、春紅茶と夏紅茶、秋番
茶に冬番茶と年に数回自家製のお茶を作っていま
す。美味しいお茶というならお高い高級茶がいくら
でもありますが、私が手間暇をかけて自家製の
お茶を作るのは野性味があって力強い味のお茶
が飲みたいからです。東谷では番茶は茶葉の付
いた小枝ごと乾燥させ飲むときは茶葉ごとお湯で
煎じて飲んでいたようです。私は乾燥させた茶葉を
さらに乾煎りしてほうじ茶で飲むのが定番です。


小枝ごと刈り取った茶葉は茶葉と小枝に分離します。小枝も乾燥させて茶葉に混ぜて使います。
茶葉だけのものより香りが力強く個性的になります。


  

Posted by メドウおじさん at 19:03Comments(0)食べ物和ハーブ

篠笛用の篠竹を採取

2020年01月16日

町内の方から伐採した雑木を頂きました。種類は
わかりませんが年輪の目が詰まった火持ちのよさ
そうな材です。35cmに玉切りしていただいたの
で薪にしやすそうです。軽トラを貸してもらい引き
取りに行きましたが、想像以上に太い幹で一人
で車に運べたのは半分ほどでした。残りはもう少し
置いて乾燥ひびが入ったころに斧で割って運ぶ
ことにしました。伐採した場所は竹林になっていて
孟宗竹だけでなく篠竹も群生していました。よく見
ると篠笛に使える節間長が30cm以上あるもの
が多くあったので笛の材料として採取しました。
東谷には篠竹は川沿いなどに多く群生していま
すが篠笛に使える節の長いものは少ないです。
昨年私の町内が東大野神社の秋祭りの当前だ
ったので笛を自作して参加したのですが、昨年
は笛に使える篠竹が見つからなかったので塩ビ
パイプで代用して作りました。次回の祭りの当前
は9年後ですが今回採取した竹で作った笛で参加
したいです。笛にするには3年ほど寝かせ十分に
乾燥させたものを使うと良いそうです。鋸の切れ味
が悪いので新しいもので切りそろえて準備したい
と思います。 


篠竹の群生です。節間が30cm以上ある竹が目につきました。



節間の長い部分を切って持って帰りました



篠笛で使えるように切りそろえました。左が8本調子用の竹です。右は6本、7本調子用の節間が35cm
以上あるものです。


  

Posted by メドウおじさん at 19:14Comments(0)クラフト

ゲンノショウコとアメリカフウロソウ

2020年01月15日

ゲンノショウコとアメリカフウロソウはともにフウロ
ソウ属ですがゲンノショウコは薬草としてよく知ら
れていて私も良く利用している在来種です。アメリ
カフウロソウは最近よく見かける北米産の野草で
帰化植物として全国的に勢力を広げています。
アメリカフウロソウはゲンノショウコとそっくりで特
に今頃の幼株はよく似ています。アメリカフウロ
ソウを含むフウロソウ属には毒草はありませんが
ゲンノショウコのような薬効はありません。なので
山菜薬草としての利用はお勧めできません。それ
ともう一つ福岡県内では可能性は小さいですが猛
毒のトリカブトに幼株の頃はよく似ているのでそう
いった意味でも用心に越したことはありません。
ゲンノショウコは4月以降は草体が硬くなるので
食用には向きませんが今の幼株のころなら雑炊に
入れたり、てんぷらにして食べることが出来ます。
雑炊は先日七草雑炊に入れていただきました。



アメリカフウロソウの幼株です。最近すごくよく見かけます。



ゲンノショウコの幼株です。東谷でもアメリカフウロソウに押されてめったに
見かけなくなりました。写真は野生のものを庭に移植してひとりでに増えたものです。



左の3枚がゲンノショウコです。右の3枚がアメリカフウロソウです。
ゲンノショウコは葉の切れ込みが浅いのと葉に赤っぽい斑点がありますが
中には斑点のないものもあるので必ずしも決め手になりません。

アメリカフウロソウは葉の切れ込みが細かく深いのが特徴です。が
100%同定するには花を見るのが一番です。写真の頃が一番見分け
にくい頃です。

  

Posted by メドウおじさん at 20:51Comments(0)山菜和ハーブ

東谷要覧解説7(東谷村沿革3)

2020年01月13日

明治三年の廃藩置県を受け企救郡は日田県に
属し豊津藩(旧小倉藩)の配下に入るとあります。
話は変わりますが前年に発生した企救一揆の義
民、原口九右衛門さんの裁判が日田で行われ処
刑されたのは当時の企救郡が日田県の配下にあ
ったためと思われます。この項には当時の各村の
村長の氏名が記されています。
明治4年豊津藩は豊津県に改称、さらに近隣の諸
県と合併し小倉県となりました。明治5年3月に庄屋
・名主排し「扱所」を置く。明治7年土地法を改正し旧
地券台帳を廃し土地台帳を作る。明治8年7月小森
手永を18大区の7小区とし、正戸長2名と副戸長2名
を置く。明治10年、戸長を一名とし、副戸長を書記と
する。明治22年市町村制発布、旧行政区画九村
(呼野、小森、市丸、木下、井手浦、新道寺、石原町、
母原、矢山(平尾台))をもって東谷村としてスタート
する。明治32年矢山を京都郡諌山村に移管する。
明治37年、38年の頃より呼野銅山を再開する。
明治41年村是をたてさらなる発展を期する。




サムネイルをクリックすると拡大版が見れます。

解説の冒頭で「明治3年の廃藩置県を受けて・・・」と書きましたが廃藩置県は明治4年なので
何かの間違いかとも思いましたが、今回はあえて原文のままに解説を書きました。日田は江戸幕府の
天領でしたが倒幕直後の慶応4年には廃藩置県令に先駆けて日田県を設置していますので、その意味で
廃藩置県としたのかもしれませんが詳細は不明です。
  

Posted by メドウおじさん at 16:49Comments(0)東谷(北九州)の紹介東谷要覧

新七草雑炊

2020年01月12日

先日初春の山菜野草を使った七草粥(雑炊)を
作りました。その時も少し書きましたが七草粥な
ど野草を使ったシンプルな料理は植物の持つ
生命力を頂くので体調が良くなるのだろうと思っ
ています。我が家では昔から春の山菜を食べ
ると寿命が3年延びると言われてきました。
(お分かりかと思いますがあくまでも物のたとえ
です)正直、子供の頃はそれほどおいしいとも
思わなかったのですが50を過ぎたころから山菜
料理がおいしいと思うようになりました。今は自
宅の周りでいくらでも山菜・野草が手に入るので
ありがたいことです。それで今回は前回とは違う
種類の野草で雑炊を作りました。素材は(ミツバ
、野らぼう菜、スイバ、ゲンノショウコ、ヨモギ、タン
ポポ、オオバコ、アザミ、ホトトギス、ノビル)+
スズシロ(大根)+カツオナです。

 以下は今回使用した山菜、野草の一部です。
  


オオバコです。



西洋スイバです



ヨモギの新芽です



ノアザミです。棘がありますが熱を加えると柔らかくなり気にならなくなります。





西洋タンポポです



ホトトギスの新芽です。



今回の七草カニ雑炊です。出汁は東丸のうどん出汁を使っています。


  

Posted by メドウおじさん at 18:59Comments(0)山菜食べ物

少し遅めの七草粥(雑炊)

2020年01月09日

今年は6日が仕事始めでしたが初日から結構
忙しく、毎日帰りが遅くなり七草の採取が出来
なかったのですがやっと今日採取できました。
七草はお店で購入した栽培物ではなく正真正
銘の野生の山菜です。スズナとスズシロは厳密
には野生ではありませんが無肥料、無農薬、不
耕起なので野生みたいなものです。七草がゆは
お正月の美味しい料理の食べ過ぎた胃腸を休
めて調子を整え一年の無事を祈念していただく
日本の食文化です。今回の七草で残念ながら
ホトケノザ(コオニタビラコ)は近隣では見かけ
いので近縁のオニタビラコで代用しました。
我が家では粥より雑炊が好みで、そうしていま
す。採取と下ごしらえは私の担当で調理は奥さ
んの担当です。今回の雑炊はカニで出汁を摂っ
ています。七草粥は言ってみれば和の薬膳みた
いなものです。その効能のメカニズムですが
草それぞれの薬効もあるでしょうが、私は新春
の山菜の新芽に蓄えられた生命力が体調を整
えるのだと考えています。(犬猫が草を食べて
体調をととのえるのと同じ理由)なので私的に
は、七草でなくてもこの季節の山菜野草の新
芽なら毒草以外極端に言えば何でもよい
と思います。ただ、組み合わせや味や調理の
しやすさ、正月明けに期待される効果などか
ら七草が一般的になったのだと思います。
(あくまでも私個人の考えです)


下からスズシロ(ダイコン)スズナ(カブ)ナズナ、セリ、ハコベ、オニタビラコ
(ホトケノザ(コオニタビラコ)の代用、ゴギョウ(ハハコグサ)+ミツバ、シャク、ノビル
の代用

七草は小さく刻んで下ごしらえします



我が家の七草雑炊です。お正月残りのカニの切り身で出汁を摂ったようです。
美味しかったです。



  

Posted by メドウおじさん at 20:51Comments(0)山菜食べ物協生農法 協生理論

東谷要覧解説6(東谷沿革2)

2020年01月07日

小笠原藩政の時代になると藩内の農村部は手永制
という農村行政組織が整備され大庄屋が統括しまし
た。東谷地区は小森手永になります。その範囲は東
谷に加え中谷、西谷の一部を含みます。この手永制
は明治になるまで続き小笠原藩政の農村統治の要
になりました。以下は東谷要覧には書かれていませ
んが幕末から明治の初年にかけての東谷の沿革で
す。小倉藩(小笠原藩)は幕末の対長洲戦の小倉口
の戦の主力として九州の大名連合の中心として戦い
敗れ、小倉城を自焼して幼い城主以下、田川郡香春
方面へ落ち、小宮民部や島村志津摩など残った小倉
藩幹部が曽根方面から平尾台にかけて最終防衛線
を敷きこれを背水の陣として山縣狂介率いる長州軍
にゲリラ戦を仕掛け勇猛に戦いました。そしてついに
降伏ではなく藩存続の講和を勝ち取りました。
東谷、中谷、西谷はその場所から戦場となり多くの
農民が苦しむ所となりました。また戦後は企救郡は
長州藩の管轄となり農村の行政は大混乱をきたし
ました。このとき発生したのが原口九衛門さんの
企救一揆です。以上が幕末から明治初年にかけて
の東谷沿革の補填です。
話がだいぶそれたのでそろそろ元に戻します。



次回は版籍奉還から廃藩置県、市町村令発布までの東谷の変遷を紹介します。
  

Posted by メドウおじさん at 21:26Comments(0)東谷(北九州)の紹介東谷要覧

東谷要覧解説5(東谷沿革1)

2020年01月06日

いよいよ本編に入ります。本編は前編、主編、後編
の3部構成です。前編は東谷の沿革で日本書紀景
行天皇記の上古の時代から平尾台の事が書かれ
ておりそこに住んでいた土蜘蛛と言われる異民族を
誅したことが書かれています。ちなみに現在のみや
こ町あたりに仮の行宮が置かれたと言われており、
その名残が町名に反映されたともいわれます。時代
は少し下り奈良時代の少し前、飛鳥藤原時代に東
谷一帯(東谷、田川も含むとも言われます)銅を産
したことで今も採銅所の地名が残っています。鎌倉
時代に作られた井手浦の梵鐘には大野庄の文字
が刻まれています。また大野という言葉は今も東大
野神社という名前につながっています。室町時代
後半から戦国時代にかけては山口の大内氏、豊後
の大友氏、筑前の秋月氏さらには島津氏の勢力が
互いに覇を競い小野田氏をはじめ中小の豪族は
その生き残りをかけて必死の活動をしていたころで
す。やがて豊臣秀吉が九州を統一すると毛利氏の
影響下に置かれ一旦は落ち着きますが豊臣家が
滅び徳川の時代になると丹後より細川氏が転封
してくると徳川政権が盤石になるにつけその統治
が進みました。さらに細川氏が熊本に転封後は播磨
より徳川親藩の小笠原氏が入り九州の抑えとして東
谷(当時は小森手永)を含む豊前小倉藩を幕末まで
治めました。



サムネイルで拡大版をご覧いただけます。
  

Posted by メドウおじさん at 20:34Comments(0)東谷要覧

薪割り始め2020

2020年01月05日

皆さん、ずいぶん遅くなってしまいましたが、今年も
よろしくお願いいたします。
今年の北部九州は年末は寒気の影響で寒かったで
すが、元旦から今日までは朝晩は放射冷却で冷える
ものの、日中は風もなく穏やかな晴天が続いていま
す。それで今年の正月休みは元旦から3日は出かけ
ましたがそれ以外はもっぱら年末に入手した薪用の
原木の玉切りと薪割りをしていました。原木は長さは
1mほどに切りそろえたものを軽トラで運び、電動の
チェーンソーで1/3に輪切りにします。それを斧で割
っていきます。太さは40cmから10cmと様々です。
薪割りをされたことのある方ならお分かりかと存じ
ますが玉切りした原木は少々太くても節がなければ
割りやすく、一発で決まってスパンとわれたときは
気持ち良いのです。一方節があると10cmの太さ
でもなかなか割れません。今回のものは切り出し
て時間があまりたっていないのと節が少なめで
作業はし易かったですが、量が多く、時間もかか
ってしまいました。もうしばらくは手斧でいけそうです
がそろそろ電動の薪割り機の導入を考えないといけ
ないかもしれません。今回作った薪は薪小屋1/3ほ
どで使えるのは早くても来シーズン後半からです。


薪ストーブと言えば定番の焼き芋です。



今回割った薪です。もう一回これぐらい作れば来年も安泰です。


  

Posted by メドウおじさん at 15:59Comments(2)薪ストーブ