古代史ロマン譚

2017年10月11日

その時、武内宿祢は強く心に誓った。『仲哀天皇の
戦死という高い代償を払ってまで成し遂げた筑紫は
山門(ヤマト)の国で倭の女王を僭称する女酋長を
滅ぼし、返す刀で周防の豊浦宮を襲撃した新羅一族
の韓国(カラクニ)を従わせ、見事に凱旋し、宇美
の里でお生まれになった皇子を必ずお守りし、ヤマ
トへ凱旋すると。』
そのためにお生まれになったばかりの皇子をお守り
するには手薄な香椎廟を離れ三方を山に囲まれた久山
の聖母屋敷(ショウモヤシキ)にお移しになられまし
た。この地はいざという時には川を下り、当時湿地帯
だった地をめぐり筑後川から有明海に抜けるルートと
背後の山を越え、飯塚から田河、京都郡から周防灘へ
抜けるルートが確保できる地でした。唯一、多々羅
方面が開いていましたが現在、ごみ焼却場のある久
山の入り口にあたる片山の脇に武内宿祢自身が
陣を張り陣頭指揮をとり皇后とお生まれになった
ばかりの皇子をお守りしました。
以上が久山に伝わる神功皇后とその皇子、後の応神
天皇の伝承です。
(以上の説は、綾杉ルナ女史の神功皇后伝承を歩く
を元に私が久山の伝承地をめぐり調べ想像したもの
です)



久山の盆地の中心部にある斎宮です。ここに神功皇后はお生まれになったばかりの
皇子とともに住まわれていた聖母屋敷跡に当たります。





斎宮(聖母屋敷跡)には皇后の伝承と当時の様子を記した古地図
が掲示されています。



武内宿祢が皇后と皇子をお守りするために陣をしいた片山です。
久山トリアスのすぐ近くにある見事な神奈備型の山で麓には
宿祢を祀った黒男神社があります。



黒男神社の鳥居です。


  

Posted by メドウおじさん at 18:35Comments(0)古代史

縄文への憧憬

2017年10月08日

最近縄文時代のことがすごく気になっています。
縄文時代は古代の日本で1万年とも2万年とも
続いていたと言われます。その文化は主に東日
本で発達しましたが西日本にも多くの遺跡が発
見されています。人々は集落単位で暮らし狩猟・
採取生活を送っていたと子供のころ習いました
が最近の研究では私が考えていたよりずっと豊かな
生活だったようです。海は魚介類が豊富で川にはサケ
マスが群れで上ってきていました。山野にはクリ、胡
桃、シイなどのナッツ類やアケビやキイチゴ、サル
ナシ、ヤマブドウなど果実も豊富でした。
青森の三内丸山遺跡では大規模な集落が営まれ数
千年人々は定住生活をしていました。集落遺跡から
は巨大木造建造物が発掘され、クリの栽培もおこなわ
れたようです。その他にも木の皮で編んだ女性用のポ
シェットも発掘されています。当時の服装も昔想像され
た動物の毛皮などでなく東北で今も採れるイラクサなど
の繊維で編んだ衣服を着ていたのではないかと言われ
ています。
数千年単位で集落が続いたという事は飢えも争いもなく
平和な時代が続いていたという事だと考えられます。文
字はなかったかもしれませんが、そこには豊かな精神文
化が息づいていたでしょう。また縄文時代も後期から晩
期になると大陸との交易もあった形跡が見られます。鉄
を中心とした技術の交流があったはずです。このことは
大陸側、そして日本の古い神話などにもそれを示唆する
話が見られます。今の時代、縄文時代の生活をする必要
はありませんが、その息吹に触れるとなぜか心が満たさ
れます。





縄文をイメージして土偶と土器のミニチュアを身近な原土で素焼きしました。

  

Posted by メドウおじさん at 09:00Comments(0)陶芸のこと古代史

古代史幻影

2017年07月08日

北九州市は昭和30年代に一時期公害都市の代名詞の
ように言われた時期もありましたがその後、企業、行政、
住民の努力で公害を克服し今では先進の環境都市とし
てその評価を高めつつあります。一方北九州は古代か
ら自然災害の少ない地域で筑紫の筑後川、筑豊の遠賀
川流域は弥生の昔からさかえ、特に遠賀川沿いは物部
氏と縁の深い地域とも言われています。
紫川流域も豊の国、企救の県の中心地として栄えたので
すが近年まで考古学的証拠(遺跡)の出土で見るものが少
なく謎でしたが近年、城野遺跡で大型方形周溝墓が見つ
かり、近くの重留遺跡では祭祀用の大型青銅剣とその工
房跡が見つかったりその他にも勾玉やガラス管の加工場
跡などが発見されており今に連なるモノづくり北九州のル
ーツを思わせます。筑紫の国、豊の国と古代史の大きな
謎を抱える福岡県は興味深い土地柄です。

これだけ完全な形の大型祭祀用青銅剣の出土は大変珍しいです。
昨年、国指定の重要文化財になりました。




方形周構墓の石棺です。内部は朱で塗り固められています。身分の高い人物だと
想像できますが不思議なのはこの石棺が子供用のものだそうです。城野一帯が
企救の県の中心地だったことが想像できます。



城野遺跡は残念なことに埋め戻されました。現在は埋蔵文化センターに復元保存されています。

今回写真はネットでお借りしました。
  

Posted by メドウおじさん at 18:19Comments(2)古代史

重留遺跡、広形銅鉾

2016年11月10日

小倉北区重留で出土した広形銅鉾がこのたび国の重要
文化財に指定されたことで「いのちのたび博物館」では11
月6日まで特別展示が行われていました。重富遺跡は弥生
中期から後期にかけての遺跡で近隣には最近大型の方形
周溝墓が発掘された城野遺跡もあります。どうやらこの辺
り一帯は弥生中期から後期にかけての大型集落で「豊の
国」の企救県(キクアガタ)の中心地だったのではないかと
睨んでいます。この地を治めた豪族のことはその正体はい
まだ謎だらけですが時代的に見てヤマト政権成立直前の
豪族の邑だったのではないかと思います。
北九州は古代から企救の県と呼ばれていたにも関わらず
、その全容は不明なことが多かったので考古学的にもそ
解明が進むと思うと楽しみです。

いのちのたび博物館は何度来ても新しい発見があって面白いです。
我が家から少し遠いのが難点です。





重富遺跡の広形銅鉾は完全な形で出土しました。祭祀にもち
いられたようです。いのちのたび博物館では今回、銅鉾の復
元実験をしています。私も今回初めて知ったのですが出来立
ての青銅銅鉾は黄金色に輝き神秘性たっぷりでした。写真で
お見せできないのが残念です。特別展示は終了しましたが
いのちのたび博物館で見ることが出来ると思いますので、ご
興味のある方は博物館に問い合わせてみたらいかがでしょう
か。093-681-1011

  

Posted by メドウおじさん at 19:53Comments(0)古代史

古代史と和薬(和ハーブ)

2016年10月16日

古事記をつらつら読んでいると(もちろん、口語訳です。原文
はハードルが高すぎです)因幡の白兎の話が出てきました。
有名な神話です。白兎が騙した和邇に皮をはがされ苦しん
でいたところを通りがかった大国主命(大黒様)にガマの穂
の治療法を教わり助かったという神話です。
調べてみると他にも出雲神話では少彦名命という渡来系の
神様がいて大国主命とともに出雲の国を作った神様です。
言ってみれば大国主命のブレーンのような存在で、この神
は医学、医薬の神様でもありました。他にも看護師のルー
ツのような存在の女神さまも登場します。また平安時代初
期には出雲の和薬の知識を集めた医薬の本も書かれて
いて和薬のルーツは出雲に見ることが出来るように思い
ます。


ガマの穂の写真ですが数年前に撮影したのですがどこに保存したのか
わからなくなってしまったので、ネットからお借りました。茶色の穂の花粉を
傷にかけると回復が早くなるそうです。


  

Posted by メドウおじさん at 12:03Comments(0)古代史

古代の産業史

2016年09月04日

私が学生のころは弥生時代後期の倭国大乱と言われる九
州北部の小国同士の騒乱が続きましたがこれは主に稲作
適地をめぐる争奪の戦いであったと習ったように思います
が近年の考古学では稲作適地というより鉄器製造や金属
加工技術をめぐる争奪戦であった可能性が高いそうです。
また弥生文化の伝播も稲作技術が重要ファクターだった
と思いますが、金属加工技術の伝播と歩調を合わせてい
る節が感じられるそうです。東谷地域では古くは奈良時代
の大仏製造にこの近辺の銅が使われたそうですしそれ以
前の古代においても香春の採銅所近辺では渡来系の人
々による金属加工が盛んにおこなわれたようです。ここの
呉川ダムには呉という中国由来の地名が残っていますし
、神功皇后がこの地の鏡山で戦勝祈願を行ったという言
い伝えも残っています。また鏡山神社の隣には河内王と
いう天武天皇に由縁のある皇族の墳墓が残されています。



呉川にかかる石橋です。



香春の鏡山神社です。鳥居の前は古代官道が通っています。神功皇后ゆかりの
神社です。



河内王の墳墓(古墳)です。この近辺は古代の香り豊かな地域です。



  

Posted by メドウおじさん at 19:00Comments(2)古代史

徳力の地名の由来

2016年08月11日

今までブログには書いていなかったのですが私のもう一つ
のライフテーマともいうべきものに福岡県の古代史があり
ます。
ちょうど大和政権確立前後から古墳時代にかけてです。
一般の歴史観としてはその実在性が疑問視されている神
功皇后ですが北部九州、とりわけ福岡県や山口県、下関
には実に生き生きとしてリアルな伝承が数多く残されてお
り、私には彼女が単なる架空の人物とはどうしても思えな
い節があります。この時代の事は文献上では古事記、日
本書紀にわずかに書かれている程度で考古学的には不
明なことが多いです。ただ福岡県各地には皇后の生々し
い伝承が数多く残っています。
その一つで東谷に近い現在の徳力の地名にまつわる伝
承があります。皇后が三韓を攻めるときに多くの軍船用
の木材をこの地を統治していた物部氏がここで調達した
ところから「採り木」→「とくりき」に変化したというものです。
皇后の伝承はほかにも軍船の帆柱用の木を採った山が
帆柱山で皇后が豊ノ浦から九州に乗り込んだとき洞海湾
を通るとき皇后が上陸した場所が皇后﨑の地名に残って
います。
皇后伝承の多くは神社に多く残っており私が敬愛する綾杉
ルナさんの著書「神功皇后伝承を歩く(上)(下)に詳しい
です。





古代、大和政権を支えた大豪族の物部氏の伝承が残る徳力嵐山の造化大神宮です。

なお、今回の採り木→とくりき(徳力)の地名由来は綾杉ルナさんの仮説を引用させて
いただきました。
  

Posted by メドウおじさん at 11:51Comments(8)古代史