縄文クッキー2021ー1

2021年10月02日

中谷の小倉南インターに植栽された
マテバシイの実が落果し始めたので
今年も縄文クッキー作りました。今年
は繋ぎ用に自家製の小麦を混ぜて
生地を作りました。マテバシイも麦も
脱穀製粉から手掛けましたがこの方
がはるか古代の縄文時代に思いを
馳せることが出来ます。縄文時代の
古代人がはたして製粉したクッキー
を食していたかどうかは不明ですが、
青森の三内丸山遺跡では栗の木を
栽培した跡や栗の殻の遺物が発見
されていることから古代縄文人が栗
やドングリなどのナッツを日常で食べ
ていたことは間違いなさそうです。
今回は2回に分けてマテバシイの
クッキー作りを紹介します。



採集したマテバシイです。向きやすくするために
フライパンで乾煎りします。



炒ったマテバシイの殻を割って中身を取り出します。
この時ラジオペンチを使うと割りやすいです。



剥いた実をすりつぶしやすくするためにナイフで小さく刻みます。
横切れる包丁でもOKです。





ミキサーにかけて細かく挽いたら出来上がりです。これくらい粒感が残った方が
縄文ぽいのでそうしています。次回は麦の脱穀製粉とクッキー作りです。


  

Posted by メドウおじさん at 10:47Comments(0)食べ物古代史

貫の巨石遺跡

2021年08月28日

今、貫・曾根方面の二市一郡新四国
霊場のお堂の調査を進めていて、あ
ちこち出かけていますがこの地域で
目に付くのが各地の大小さまざまの
古墳や由緒ある神社仏閣です、特に
古墳群は4,5世紀のこの地方の古
代豪族の古墳が多いようです。この
時代は大和朝廷による統一が進み
旧の企救郡の周防灘に面した地域
は豊のクニが形成されていました。
いずれ古墳巡りも手掛けたいです
が今回気になったのはこの地域に
特異な巨石が多いことです。古代
からの霊峰貫山から流れる貫川
沿いに目を見張る巨石が点在して
います。そのトップに立つのが中貫
の荘八幡神社境内にある鈴石(スズ
イワと読みます)です。直径で4mは
ゆうにある半球状の岩が小高い荘
八幡神社境内の中央に存在します。
その巨石は真ん中を鋭い刃物で断
ち割ったように真っ二つに割れてい
ます。今評判のアニメ鬼滅の刃の主
人公が修行で断ち割った巨石の
モデルとも言われています。その
断面を見てもとても自然に割れた
もののようには思えませんがどう
やって加工したのかも謎のままで
す。これほどの巨石がなぜ小高い
神社庁上の境内にあるのかも謎
です。これは私の私見ですが岩の
割れ目がちょうど曾根方面の海に
向かっています。想像を膨らませ
るとこの割れ目は日の出を観測
する装置であったかもしれません
。この巨石が人工的に加工された
ものなら古代の巨石文明にロマン
を感じます。

荘八幡神社の鈴石です。9万年前の阿蘇の大噴火の時に火砕流とともに

ここまで運ばれたものという説や其れよりもさらに古く地下のマグマが地表

付近で冷却されたときに節理が出来て割れた巨石という説もありますが

はっきりしたことはわかりません。

 

 

 

上貫のる気川沿いの道路脇にあった長辺7mほどもある巨石です。

 

 

 

荘八幡神社近くの御座神宮寺にある巨石です。さらに朽網には直径10mを越える

巨石帝踏石があります、



  

Posted by メドウおじさん at 13:06Comments(0)古代史

企救の県幻影3(北九州埋蔵文化センター)

2021年03月16日

小倉北区の勝山公園周辺は中央図
書館はじめ各種の公共施設が集まっ
ていてその周辺はマンションが多く立
ち並ぶ人気の居住地になっています。
公共施設やマンションが集まる前は
戦前の軍都小倉のシンボル造兵廠
の主力軍事工場や陸軍の師団が置
かれていました。戦後は長く放置さ
れた空地でしたが徐々に小倉城を
中心として北九州市庁舎が置かれ
て以降整備されてきました。北九州
埋蔵文化センターはその一角にあり、
先日紹介した城野遺跡の石棺や重留
遺跡の大型銅矛のレプリカ、重住遺
跡出土の勾玉、水晶などが展示説明
されています。特に城野遺跡の石棺
は出土状況を模した展示がされてい
て現地説明版よりはるかに詳しい説明
がわかります。さらに出土調査報告書
のライブラリーもありより詳しく調べる
こともできます。また入り口入ってすぐ
に北九州市全域の大型地図に遺跡の
出土場所がプロットがされたものが掲
示されておりとてもためになります。


小倉北区の大手町の北九州埋蔵文化センターです。



城野遺跡の石棺出土のレプリカです。



出土状況の詳細な説明板です。



重住遺跡出土の勾玉製造工房からの出土品です。



重留遺跡出土の大型銅矛のレプリカです。実物は」北九州いのちの旅博物館に
保存されています


  

Posted by メドウおじさん at 09:42Comments(0)古代史

企救の県幻影2(城野遺跡、重住遺跡)

2021年03月12日

先日紹介した城野駅南地区の重留
遺跡のすぐ近くには城野遺跡、重住
遺跡があります。城野遺跡からはお
よそ10m四方の方形周溝墓が発掘
されました。方形周溝墓は方形墓の
周りを溝で囲んだ墳墓です。墓内に
は小児用の朱塗りの石棺が二つ安
置されていました。方形墓はこの地
域の首長クラスの墳墓に準ずるもの
で被葬者は子供の兄弟と言われてい
ます。一方重住遺跡は企救の県の中
心地であったろうこのムラの玉や水晶
などの装飾品の製造工房などが発掘
されています。両遺跡ともに現在は埋
め戻されマンションや一般住宅になっ
ていてこれ以上の調査は不可能にな
っています。その代わりと言っては何
でしょうが城野遺跡は北九州市の埋蔵
文化センターに方形周溝墓の石棺の
発掘時のレプリカが展示されており詳細
な解説もわかるように公開されています。
埋蔵文化センターの様子はまた次回報
告させていただきます。

現在整備中の城野遺跡史跡広場に設置されている説明板です。



発掘時の方形周溝墓の写真です



城野遺跡、重留遺跡、重住遺跡の位置関係がわかる地図も
合わせて掲示されています。



整備中の史跡広場の全景です。一番奥の一段高くなっている場所から方形周溝墓が
出土しました。画面左隣は建設中のマンションです。



広場のメインの方形周溝墓の部分です。実寸なのでその規模を実感できます。
中央囲みの部分から二基の小児の石棺が出土しました。周囲の周溝の部分です。



城野遺跡近くの重住遺跡跡地です。ここも調査後埋め戻されて住宅地になっています。
ここからは勾玉や玉の加工工房跡が発掘されています。


  

Posted by メドウおじさん at 16:41Comments(0)古代史

企救のクニ幻影1

2021年03月09日

数年前に訪問した戸畑区東田のいのち
のたび博物館で見た小倉南区重留で
発見された広形銅鉾が発掘された重留
遺跡に行ってきました。この重留を含む
JR城野駅南一帯は大規模な古代遺跡
が発見されております。時代は弥生時代
中期から後期にかけてで、古代史ファン
に関心の高い卑弥呼や神功皇后の時
代でトヨのクニ企救の県の中心地だった
可能性があります。東の足立山麓から
続くなだらかな傾斜地で低い尾根と
谷地が交互に続く地形です。付近一
帯は住宅地として開発が進み、どの
遺跡も発掘が終わった後はすぐに埋
め戻されマンションや商業施設、住宅
地として開発されていてこれ以上の調
査は望めません。奈良の古代遺跡や
東北の三内丸山遺跡もそうですが、
地下に向かって何層もの遺跡が重な
っていることも多くありまだ未知の遺跡
が眠っていた可能性もあるので残念
です。今回の重留遺跡では重要文化
財に指定された祭祀用広形銅剣の発
掘された場所で小さな遺跡公園として
残されており説明板と発掘当時の様子
が再現されています。重留遺跡の他に
も城野遺跡、重住遺跡など城野駅南
一帯は個人的な見解ではそれぞれ関
連性を持った企救の県の通信的な場
所だったろうと思います。三つの遺跡
の中では小高い場所にあり北に向か
って眺望の広がったこの場所に立つ
と眼下に企救の県の都が広がってい
る様子が目に浮かびます。


重留遺跡公園です。自宅からおよそ10km位の場所ですが
この程度の距離の場所にはもっぱら自転車で移動しています。


重留遺跡の全景です。ここでは重要文化財に指定された
祭祀用の大型幅広銅鉾が発掘されました。この遺跡は
この場所で祭祀が行われたと考えられています



水が溜まってわかりにくいですが銅矛が発見された状態を
再現しています。



この辺一帯は重留遺跡の他にも城野遺跡、重住遺跡などが
発見されており企救の県の都だったのではないかと思います。



以前いのちの旅博物館で拝見した銅矛です



芦屋釜のご協力で再現された青銅の銅矛のレプリカです。黄金色に輝く
銅矛は祭祀用の神秘な力を感じさせるものであったと思います。


  

Posted by メドウおじさん at 16:34Comments(0)古代史

牧山の御馬橋

2020年03月01日

北九州市戸畑区の戸畑警察署の横を流れる
天籟寺川に架かる橋の欄干に馬のブロンズ像
が置かれており以前から気になっていました。
橋のたもとに説明書きによると、この橋から南
側の丘陵地一帯は牧山とよばれ、古くから馬の
産地だったそうです。鎌倉時代初期には源頼
朝の愛馬もここの産だったそうです。その後も
江戸時代まで牧場として歴史を刻んでいきま
す。ところでここからは私、個人の考察ですが
牧山の牧場としての歴史はもっと古くさかのぼ
るのではないかと思っています。牧山のように
丘陵地が海岸に迫っている場所で宗像から
津屋崎にかけても同じような地形があり、そこ
では弥生時代後期から古墳時代にかけて軍馬
が生産されていました。当時響灘から玄界灘
沿いの古代豪族の領地で軍馬の生産拠点が
点在していたのではないかと思っています。



御馬橋のブロンズ像です。



古い橋柱と由来書きです



南側の丘陵地です。この辺りが牧場だったと思われます



  

Posted by メドウおじさん at 08:59Comments(0)古代史

魏志倭人伝を読み解く

2019年05月19日

さる5月10日にBSTBSの「諸説あり」魏志倭人伝を
読み解き邪馬台国の所在を推定するという番組があ
ったそうです。私が尊敬する「綾杉ルナ」女史がご自
分のブログ「ひもろぎ逍遥」で報告されていました。こ
の番組は今まであまた取り上げられた邪馬台国九州
説や畿内奈良説と大きく違うのは魏志倭人伝を中国
の現役バリバリの歴史学者や言語学者に改めて読ん
でもらい邪馬台国を解釈推定してもらうという点です。
それもお一人ではなく3人の学者さんによるものでそ
れぞれ「漢字学」「歴史学」「中国の政治史」の専門家
による読解解釈です。従来この手の番組は奈良の
纏向遺跡の発掘以降、畿内奈良説を有力視する番組
が多かったのですが新しい視点で非常に説得力があ
る内容です。詳しくは「ひもろぎ逍遥」に書かれています
。ご興味のある方はぜひ覗いてみてください。
九州説の弱点は物証が乏しかったことですが最近、吉野ケ里遺跡近辺で
当時の硯が発見されています。当時の硯は非常に珍しいもので他では
ほとんど出土していないものです。当時の魏と交渉のあった邪馬台国
の有力な物証になるかもしれません。邪馬台国と倭国とその後のヤマト
王権の関係については綾杉ルナ女子の考えをベースに私論をまとめてみようと思っています。


画像は吉野ケ里遺跡公園のHPよりお借りしました。私は吉野ケ里は邪馬台国の重要なクニの一つだったと思っています。
  

Posted by メドウおじさん at 08:47Comments(0)古代史

お日待ち神事

2019年01月30日

今月28日は町内の組内のお日待ち神事がありました。
現在のお日待ちは組内の親睦を深める新年会の趣が
強いですが本来はこの時期冬至が過ぎやや日が長く
なったころ太陽の恵みやその日差しに感謝し、前日の
夜からその年の当番の家に集まり徹夜で日の出を待
ち、日の出の太陽を拝んで家内繁盛、一年の健康を
祈願するものでした。今回も東谷の産土神東大野神社
から宮司さんに来ていただき祝詞を上げていただいて
います。隣村の中谷の郷原集落の大野山山頂ではかつ
て(戦前期ぐらいまで?)山頂に集まり日の出の太陽を
拝んでいたそうです。大野山山頂は高津尾町内で一番
最初に日が昇るそうです。かつてそこにはビワ石と呼ば
れる巨石があってここを磐座として神事が行われたそう
です。いつからおこなわれていたのかは不明ですが太陽
信仰と巨石信仰の痕跡から相当に古い、ひょっとしたら
古代からおこなわれた可能性もあるのではないかと
私は思っています。ビワ石ですが現在は山頂にはなく
昭和60年代前半に豪雨で目倉谷に流され行方不明にな
ったそうです。
またこれも言い伝えですが、大野山の麓の旧家には大野
神社の神様が666年に降臨した影向石が今も存在し子孫
の方がお守しているそうなのでいつかお話を伺いたいと思
っています。
(上記の大野山のお日待ちと影向石の言い伝えは高津尾
のブロガーひなばったさんのブログに収録されている鴨田
さんの記録を参考にさせていただきました)




町内組内のお日待ち神事の様子です



神社から頂いた日拜祭のお札です
  

Posted by メドウおじさん at 20:49Comments(0)古代史

小倉南区の分水嶺と古代幻視

2018年02月15日

以前に一度書いたのですが 小倉南区の分水嶺について
志井から石田にかけて続く小高い丘陵地を境に東の竹馬
川と西の紫川水系に分かれます。もう少し細かく見ると足
立山麓の湯川を境にもう一つ小さな分水嶺があります。
北側は神岳川が流れ紫川に合流します。南側は竹馬川
に合流する小さな流れです。紫川水系は主に東谷川、中
谷川、合馬川の3支流が合流してできます。私が分水嶺や
水系に興味を持つのはこれらが古代史の集落跡や中世
山城の配置と微妙に重なるからで興味が尽きません。
また現在再開発が進む城野地区では祭祀用の大型銅矛
が出土した重留遺跡や子供用の朱塗りの石棺が出土した
方形周溝墓の城野遺跡など弥生後期の遺跡が発掘され
ています。個人的にはこの辺り一帯が古代の企救の県の
中心地だったのではないかと想像しています。


志井のポリテクカレッジから石田手前まで続く丘陵地が一つの分水嶺です。後ろに見える山並一帯に
中世山城最大の長野城が築かれました。



重留遺跡から発掘された祭祀用の大型銅矛を忠実に再現したレプリカです。
銅矛や銅剣、銅鐸など祭祀用の青銅器はこのように当時は黄金色に輝き
神秘な力を持つと当時の人々には信じられていたものと考えます。
  

Posted by メドウおじさん at 16:17Comments(0)古代史

古代史ロマン譚

2017年10月11日

その時、武内宿祢は強く心に誓った。『仲哀天皇の
戦死という高い代償を払ってまで成し遂げた筑紫は
山門(ヤマト)の国で倭の女王を僭称する女酋長を
滅ぼし、返す刀で周防の豊浦宮を襲撃した新羅一族
の韓国(カラクニ)を従わせ、見事に凱旋し、宇美
の里でお生まれになった皇子を必ずお守りし、ヤマ
トへ凱旋すると。』
そのためにお生まれになったばかりの皇子をお守り
するには手薄な香椎廟を離れ三方を山に囲まれた久山
の聖母屋敷(ショウモヤシキ)にお移しになられまし
た。この地はいざという時には川を下り、当時湿地帯
だった地をめぐり筑後川から有明海に抜けるルートと
背後の山を越え、飯塚から田河、京都郡から周防灘へ
抜けるルートが確保できる地でした。唯一、多々羅
方面が開いていましたが現在、ごみ焼却場のある久
山の入り口にあたる片山の脇に武内宿祢自身が
陣を張り陣頭指揮をとり皇后とお生まれになった
ばかりの皇子をお守りしました。
以上が久山に伝わる神功皇后とその皇子、後の応神
天皇の伝承です。
(以上の説は、綾杉ルナ女史の神功皇后伝承を歩く
を元に私が久山の伝承地をめぐり調べ想像したもの
です)



久山の盆地の中心部にある斎宮です。ここに神功皇后はお生まれになったばかりの
皇子とともに住まわれていた聖母屋敷跡に当たります。





斎宮(聖母屋敷跡)には皇后の伝承と当時の様子を記した古地図
が掲示されています。



武内宿祢が皇后と皇子をお守りするために陣をしいた片山です。
久山トリアスのすぐ近くにある見事な神奈備型の山で麓には
宿祢を祀った黒男神社があります。



黒男神社の鳥居です。


  

Posted by メドウおじさん at 18:35Comments(0)古代史

縄文への憧憬

2017年10月08日

最近縄文時代のことがすごく気になっています。
縄文時代は古代の日本で1万年とも2万年とも
続いていたと言われます。その文化は主に東日
本で発達しましたが西日本にも多くの遺跡が発
見されています。人々は集落単位で暮らし狩猟・
採取生活を送っていたと子供のころ習いました
が最近の研究では私が考えていたよりずっと豊かな
生活だったようです。海は魚介類が豊富で川にはサケ
マスが群れで上ってきていました。山野にはクリ、胡
桃、シイなどのナッツ類やアケビやキイチゴ、サル
ナシ、ヤマブドウなど果実も豊富でした。
青森の三内丸山遺跡では大規模な集落が営まれ数
千年人々は定住生活をしていました。集落遺跡から
は巨大木造建造物が発掘され、クリの栽培もおこなわ
れたようです。その他にも木の皮で編んだ女性用のポ
シェットも発掘されています。当時の服装も昔想像され
た動物の毛皮などでなく東北で今も採れるイラクサなど
の繊維で編んだ衣服を着ていたのではないかと言われ
ています。
数千年単位で集落が続いたという事は飢えも争いもなく
平和な時代が続いていたという事だと考えられます。文
字はなかったかもしれませんが、そこには豊かな精神文
化が息づいていたでしょう。また縄文時代も後期から晩
期になると大陸との交易もあった形跡が見られます。鉄
を中心とした技術の交流があったはずです。このことは
大陸側、そして日本の古い神話などにもそれを示唆する
話が見られます。今の時代、縄文時代の生活をする必要
はありませんが、その息吹に触れるとなぜか心が満たさ
れます。





縄文をイメージして土偶と土器のミニチュアを身近な原土で素焼きしました。

  

Posted by メドウおじさん at 09:00Comments(0)陶芸のこと古代史

古代史幻影

2017年07月08日

北九州市は昭和30年代に一時期公害都市の代名詞の
ように言われた時期もありましたがその後、企業、行政、
住民の努力で公害を克服し今では先進の環境都市とし
てその評価を高めつつあります。一方北九州は古代か
ら自然災害の少ない地域で筑紫の筑後川、筑豊の遠賀
川流域は弥生の昔からさかえ、特に遠賀川沿いは物部
氏と縁の深い地域とも言われています。
紫川流域も豊の国、企救の県の中心地として栄えたので
すが近年まで考古学的証拠(遺跡)の出土で見るものが少
なく謎でしたが近年、城野遺跡で大型方形周溝墓が見つ
かり、近くの重留遺跡では祭祀用の大型青銅剣とその工
房跡が見つかったりその他にも勾玉やガラス管の加工場
跡などが発見されており今に連なるモノづくり北九州のル
ーツを思わせます。筑紫の国、豊の国と古代史の大きな
謎を抱える福岡県は興味深い土地柄です。

これだけ完全な形の大型祭祀用青銅剣の出土は大変珍しいです。
昨年、国指定の重要文化財になりました。




方形周構墓の石棺です。内部は朱で塗り固められています。身分の高い人物だと
想像できますが不思議なのはこの石棺が子供用のものだそうです。城野一帯が
企救の県の中心地だったことが想像できます。



城野遺跡は残念なことに埋め戻されました。現在は埋蔵文化センターに復元保存されています。

今回写真はネットでお借りしました。
  

Posted by メドウおじさん at 18:19Comments(2)古代史

重留遺跡、広形銅鉾

2016年11月10日

小倉北区重留で出土した広形銅鉾がこのたび国の重要
文化財に指定されたことで「いのちのたび博物館」では11
月6日まで特別展示が行われていました。重富遺跡は弥生
中期から後期にかけての遺跡で近隣には最近大型の方形
周溝墓が発掘された城野遺跡もあります。どうやらこの辺
り一帯は弥生中期から後期にかけての大型集落で「豊の
国」の企救県(キクアガタ)の中心地だったのではないかと
睨んでいます。この地を治めた豪族のことはその正体はい
まだ謎だらけですが時代的に見てヤマト政権成立直前の
豪族の邑だったのではないかと思います。
北九州は古代から企救の県と呼ばれていたにも関わらず
、その全容は不明なことが多かったので考古学的にもそ
解明が進むと思うと楽しみです。

いのちのたび博物館は何度来ても新しい発見があって面白いです。
我が家から少し遠いのが難点です。





重富遺跡の広形銅鉾は完全な形で出土しました。祭祀にもち
いられたようです。いのちのたび博物館では今回、銅鉾の復
元実験をしています。私も今回初めて知ったのですが出来立
ての青銅銅鉾は黄金色に輝き神秘性たっぷりでした。写真で
お見せできないのが残念です。特別展示は終了しましたが
いのちのたび博物館で見ることが出来ると思いますので、ご
興味のある方は博物館に問い合わせてみたらいかがでしょう
か。093-681-1011

  

Posted by メドウおじさん at 19:53Comments(0)古代史

古代史と和薬(和ハーブ)

2016年10月16日

古事記をつらつら読んでいると(もちろん、口語訳です。原文
はハードルが高すぎです)因幡の白兎の話が出てきました。
有名な神話です。白兎が騙した和邇に皮をはがされ苦しん
でいたところを通りがかった大国主命(大黒様)にガマの穂
の治療法を教わり助かったという神話です。
調べてみると他にも出雲神話では少彦名命という渡来系の
神様がいて大国主命とともに出雲の国を作った神様です。
言ってみれば大国主命のブレーンのような存在で、この神
は医学、医薬の神様でもありました。他にも看護師のルー
ツのような存在の女神さまも登場します。また平安時代初
期には出雲の和薬の知識を集めた医薬の本も書かれて
いて和薬のルーツは出雲に見ることが出来るように思い
ます。


ガマの穂の写真ですが数年前に撮影したのですがどこに保存したのか
わからなくなってしまったので、ネットからお借りました。茶色の穂の花粉を
傷にかけると回復が早くなるそうです。


  

Posted by メドウおじさん at 12:03Comments(0)和ハーブ古代史

古代の産業史

2016年09月04日

私が学生のころは弥生時代後期の倭国大乱と言われる九
州北部の小国同士の騒乱が続きましたがこれは主に稲作
適地をめぐる争奪の戦いであったと習ったように思います
が近年の考古学では稲作適地というより鉄器製造や金属
加工技術をめぐる争奪戦であった可能性が高いそうです。
また弥生文化の伝播も稲作技術が重要ファクターだった
と思いますが、金属加工技術の伝播と歩調を合わせてい
る節が感じられるそうです。東谷地域では古くは奈良時代
の大仏製造にこの近辺の銅が使われたそうですしそれ以
前の古代においても香春の採銅所近辺では渡来系の人
々による金属加工が盛んにおこなわれたようです。ここの
呉川ダムには呉という中国由来の地名が残っていますし
、神功皇后がこの地の鏡山で戦勝祈願を行ったという言
い伝えも残っています。また鏡山神社の隣には河内王と
いう天武天皇に由縁のある皇族の墳墓が残されています。



呉川にかかる石橋です。



香春の鏡山神社です。鳥居の前は古代官道が通っています。神功皇后ゆかりの
神社です。



河内王の墳墓(古墳)です。この近辺は古代の香り豊かな地域です。



  

Posted by メドウおじさん at 19:00Comments(2)古代史

徳力の地名の由来

2016年08月11日

今までブログには書いていなかったのですが私のもう一つ
のライフテーマともいうべきものに福岡県の古代史があり
ます。
ちょうど大和政権確立前後から古墳時代にかけてです。
一般の歴史観としてはその実在性が疑問視されている神
功皇后ですが北部九州、とりわけ福岡県や山口県、下関
には実に生き生きとしてリアルな伝承が数多く残されてお
り、私には彼女が単なる架空の人物とはどうしても思えな
い節があります。この時代の事は文献上では古事記、日
本書紀にわずかに書かれている程度で考古学的には不
明なことが多いです。ただ福岡県各地には皇后の生々し
い伝承が数多く残っています。
その一つで東谷に近い現在の徳力の地名にまつわる伝
承があります。皇后が三韓を攻めるときに多くの軍船用
の木材をこの地を統治していた物部氏がここで調達した
ところから「採り木」→「とくりき」に変化したというものです。
皇后の伝承はほかにも軍船の帆柱用の木を採った山が
帆柱山で皇后が豊ノ浦から九州に乗り込んだとき洞海湾
を通るとき皇后が上陸した場所が皇后﨑の地名に残って
います。
皇后伝承の多くは神社に多く残っており私が敬愛する綾杉
ルナさんの著書「神功皇后伝承を歩く(上)(下)に詳しい
です。





古代、大和政権を支えた大豪族の物部氏の伝承が残る徳力嵐山の造化大神宮です。

なお、今回の採り木→とくりき(徳力)の地名由来は綾杉ルナさんの仮説を引用させて
いただきました。
  

Posted by メドウおじさん at 11:51Comments(8)古代史