東谷要覧解説14(主編10産業1米作)

2020年08月01日

要覧の主編10は産業(農業)の振興に
つき米作、麦作、病虫害駆除、園芸、
畜産について書かれています。今回は
米作増収振興についてです。当時の大
正2年の東谷村東谷村では一反当たり
およそ一石九斗でしたがこれを二石六
斗に10か年計画で増収せしめることが
書かれています。その具体策として1.種
子の改良統一、2.籾種子の塩水選3.稲
田の正條植4.緑肥栽培5.石灰の節用6.
土地の深耕7.堆肥改良増収8.肥料の
調製配合法の改善9.苗代の改良10排水
の10項目が定められています。








  

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東谷要覧解説13(主編九、衛生)

2020年07月20日

九項の衛生はわずか1pです。冒頭部分に
「健全なる精神は健全なる身体に宿る。
消極的に衛生に注意し保健に努め積極
的に体育に意を用いて頑健なる身体の
所有となすことは農村としての特質発揮
に惣にすべからずさる重要事項なり」と
あります。これは現代の陋習衛星の感覚
からするとずいぶんずれを感じます。簡
単に言うと衛生に注意するより体を鍛え
て頑強な体を作ろうということなので現代
の感覚からすると違和感があります。衛生
に注意し丈夫な体を鍛えて作ろうというな
らよくわかるのですが。
このあと村としての衛生計画が書かれ、
衛生組合の規約書が載っています。







  

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東谷要覧解説12(主編七教育後半の続き)

2020年06月08日

当時の東谷村の社会教育としては
(1)村農会(2)村進農会(3)教育区会
(4)青年団(5)処女会(6)戸主会(7)主
婦会(8)在郷軍人会の8つの分会があり
ました。要覧ではこのうち青年団会則
婦人会会則(処女会)、在郷軍人会会則
が掲載されています。なかでも在郷軍人
会、青年団活動について多くのページを
割いています。これは明治後半の日清、
日露の両大戦を経験した日本が国家政
策の柱の一つ軍事について一農村の末
端まで浸透させるために徹底していた
ためだと思います。このことも現在の感覚
でみると賛否の分かれるところだと思いま
すが歴史的事実を正しく知った上で判断
することは大切だと思い紹介しています。
以前東谷出張所のかたが地区の広報誌
に要覧のダイジェストを紹介されていまし
たがこの部分の事はほとんどスルーされ
ていました。現在の行政担当者としては
デリケートな部分ではあるので割愛され
たものと忖度します。



 






  

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東谷要覧解説11(主編(七)教育、後半)

2020年05月04日

久しぶりの東谷要覧解説です。3月~5月
にかけては野草、山菜の書きたいテーマが
多くどうしても他のジャンルが少なくなりま
す。ですが東谷要覧は私のライフテーマの
一つなので歩みは遅くともやめるわけには
いきません。
さて前回は東谷の小学校教育について書
きましたが今回は主に社会教育とその体系
についてです。詳細は下記のサムネイルで
お読みいただきたいですがざっというと、当
時の大日本帝国憲法下における健全な社
会人男子と女子(婦人)の育成を目指すも
のと言えます。当時の考え方については賛
否両論あるのでここでは触れませんが当時
の小さな行政組織において事細かく規定し
運用されていたようです。

教育に関する規定類
奨学金規定、図書館規定

東谷社会教育則には次のように書かれて
います。
本村民の智徳を進め風俗を改善し品性優
れたる生産的国民を養成し一村の福利を
増進するため左の各団に対し精神的教育
を施し協同的精神を養成すること。とあり
ます。

当時の東谷村には各集落横断の青年団、
婦人会、在郷軍人会などの組織があり、
事細かく規則規定が定められています。
現在の東谷地域にもその流れを汲むと思
われる組織や活動はありますが当時のも
のとは大きく変わっています。当時のもの
は半ば、公的組織で村からの予算が主体
で運営されています。現在は市民センター
と共同でメンバーも基本、ボランティアで
運営されています。(とはいえ、各町内に
は様々の協力要請はあります)次回は各
会の具体的規定が細かくありますので
それを紹介します。










  

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東谷要覧解説10(主編(七)教育、前半)

2020年03月11日

東谷要覧主編の(七)は教育の項で当時の東谷
村の教育の事が詳しく書かれています。その前
半は教育村是とその目的設立の経緯や内容が
詳しくなされています。後半は社会教育ですが
これは次回に書きます。
学校は第一尋常小学校(現、新道寺小学校)と
第二尋常小学校(現、市丸小学校)が設立され
ました。なお明治のはじめにはいち早く、当時
の三谷の中心地の加用に高等小学校(今の
中学校)が開かれました。加用の高等草学校
はその後、第一尋常小学校に併設された高等
小学校にその任を引き継ぎました。加用の高等
小学校については本ブログの2014年6月17日
に詳しく書きました。さらに学校教育としては農
業を中心とした実業の補習学校を第一、第二
尋常学校に併設し村として積極的に進学を推奨
していたようです。また村立の図書館も持ってい
ました。補習学校については詳細はわかりませ
んが農業技術の普及を目指していたものと思
われます。当時の独立した行政機関の村立の
学校教育としては格調の高いものだったことが
伺われます。次回は学校教育以外の社会教
育について触れます。


















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東谷要覧解説9(主編(五)から(六)

2020年02月13日

主編の2回目です。今回は(五)から(六)で人情・
風俗、戸数・人口で(五)の人情風俗に次のような
記述があります。
旧藩時代より金・銅の採掘業があり明治になり銅
山業の復活や石灰岩採掘で労働者の移入もあり 
「これらの影響のため他の山間地に比して
文化程度の進みたるに比例して比較的農村として
の純朴さを欠ける嫌なきにあらず。されど村全体を
通ずるときは農村としての特質を失わず」

と書かれています。中々言い得て妙で今に通ずる
東谷人の気質を表しているようです。戸数・人口は
大正12年末の調べで戸数753、人口男女合わせ
て4183人となっています。ほぼ100年後の現在
人口は当時とほとんど変わらない状況でほぼ足踏
み状態です。近隣の旧企救町や曾根村が大きく発
展しているのに比べると後れを取っているのは否
めません。逆に言えば古きよきものも多く残ってい
るという事でこれからはこれをうまく生かすことが
大事な気がします。





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東谷要覧解説8(主編(一)から(四))

2020年01月30日

さあ、いよいよ主編に入ります。主編は(一)から
(十四)まで書かれています。
(一)位置、広さ (五)人情・風俗  (九)衛生 (十三)団体整理
(二)地勢     (六)戸数人口   (十)産業 (十四)経済
(三)地味     (七)教育      (十一)土木
(四)交通     (八)本村の学校  (十二)納税

今回は(一)から(四)までです。要約すると南は金辺
峠、東は平尾台  西は福智山山系に囲まれ中央を
紫川支流の東谷川が流れる中山間地で決して広く
はありませんが稲作を中心とする農業に適した
地域です。交通は南北には東谷川に沿うように
古くは香春街道(秋月街道)が大正年間には小倉
鉄道が開通していました。東西は古くから東は平
尾台を越えて苅田行橋へ抜け、西は中谷との境の
櫨が峠を越えてさらに合馬、田代・畑と旧筑前国
へ抜けていました。

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東谷要覧解説7(東谷村沿革3)

2020年01月13日

明治三年の廃藩置県を受け企救郡は日田県に
属し豊津藩(旧小倉藩)の配下に入るとあります。
話は変わりますが前年に発生した企救一揆の義
民、原口九右衛門さんの裁判が日田で行われ処
刑されたのは当時の企救郡が日田県の配下にあ
ったためと思われます。この項には当時の各村の
村長の氏名が記されています。
明治4年豊津藩は豊津県に改称、さらに近隣の諸
県と合併し小倉県となりました。明治5年3月に庄屋
・名主排し「扱所」を置く。明治7年土地法を改正し旧
地券台帳を廃し土地台帳を作る。明治8年7月小森
手永を18大区の7小区とし、正戸長2名と副戸長2名
を置く。明治10年、戸長を一名とし、副戸長を書記と
する。明治22年市町村制発布、旧行政区画九村
(呼野、小森、市丸、木下、井手浦、新道寺、石原町、
母原、矢山(平尾台))をもって東谷村としてスタート
する。明治32年矢山を京都郡諌山村に移管する。
明治37年、38年の頃より呼野銅山を再開する。
明治41年村是をたてさらなる発展を期する。




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解説の冒頭で「明治3年の廃藩置県を受けて・・・」と書きましたが廃藩置県は明治4年なので
何かの間違いかとも思いましたが、今回はあえて原文のままに解説を書きました。日田は江戸幕府の
天領でしたが倒幕直後の慶応4年には廃藩置県令に先駆けて日田県を設置していますので、その意味で
廃藩置県としたのかもしれませんが詳細は不明です。
  

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東谷要覧解説6(東谷沿革2)

2020年01月07日

小笠原藩政の時代になると藩内の農村部は手永制
という農村行政組織が整備され大庄屋が統括しまし
た。東谷地区は小森手永になります。その範囲は東
谷に加え中谷、西谷の一部を含みます。この手永制
は明治になるまで続き小笠原藩政の農村統治の要
になりました。以下は東谷要覧には書かれていませ
んが幕末から明治の初年にかけての東谷の沿革で
す。小倉藩(小笠原藩)は幕末の対長洲戦の小倉口
の戦の主力として九州の大名連合の中心として戦い
敗れ、小倉城を自焼して幼い城主以下、田川郡香春
方面へ落ち、小宮民部や島村志津摩など残った小倉
藩幹部が曽根方面から平尾台にかけて最終防衛線
を敷きこれを背水の陣として山縣狂介率いる長州軍
にゲリラ戦を仕掛け勇猛に戦いました。そしてついに
降伏ではなく藩存続の講和を勝ち取りました。
東谷、中谷、西谷はその場所から戦場となり多くの
農民が苦しむ所となりました。また戦後は企救郡は
長州藩の管轄となり農村の行政は大混乱をきたし
ました。このとき発生したのが原口九衛門さんの
企救一揆です。以上が幕末から明治初年にかけて
の東谷沿革の補填です。
話がだいぶそれたのでそろそろ元に戻します。



次回は版籍奉還から廃藩置県、市町村令発布までの東谷の変遷を紹介します。
  

Posted by メドウおじさん at 21:26Comments(0)東谷要覧

東谷要覧解説5(東谷沿革1)

2020年01月06日

いよいよ本編に入ります。本編は前編、主編、後編
の3部構成です。前編は東谷の沿革で日本書紀景
行天皇記の上古の時代から平尾台の事が書かれ
ておりそこに住んでいた土蜘蛛と言われる異民族を
誅したことが書かれています。ちなみに現在のみや
こ町あたりに仮の行宮が置かれたと言われており、
その名残が町名に反映されたともいわれます。時代
は少し下り奈良時代の少し前、飛鳥藤原時代に東
谷一帯(東谷、田川も含むとも言われます)銅を産
したことで今も採銅所の地名が残っています。鎌倉
時代に作られた井手浦の梵鐘には大野庄の文字
が刻まれています。また大野という言葉は今も東大
野神社という名前につながっています。室町時代
後半から戦国時代にかけては山口の大内氏、豊後
の大友氏、筑前の秋月氏さらには島津氏の勢力が
互いに覇を競い小野田氏をはじめ中小の豪族は
その生き残りをかけて必死の活動をしていたころで
す。やがて豊臣秀吉が九州を統一すると毛利氏の
影響下に置かれ一旦は落ち着きますが豊臣家が
滅び徳川の時代になると丹後より細川氏が転封
してくると徳川政権が盤石になるにつけその統治
が進みました。さらに細川氏が熊本に転封後は播磨
より徳川親藩の小笠原氏が入り九州の抑えとして東
谷(当時は小森手永)を含む豊前小倉藩を幕末まで
治めました。



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東谷要覧解説4(目次)

2019年12月29日

東谷要覧の構成は前編、主編、後編になっています。
それぞれの解説は詳細解説の3で書きましたので今
回は写真だけご覧ください。最近話題が少ないので
しばらくは、東谷要覧の紹介が続きます。






以下サムネイルです。拡大できます。







  

Posted by メドウおじさん at 18:16Comments(0)東谷要覧

東谷要覧詳細解説3(緒言)

2019年12月26日

村是の次は本編に入る前に当時の村長さんの緒言
が掲げられています。前編は上古の時代から始まる
東谷の歴史語られ、主編は村誌として村自治の計画
案が書かれています。後編は郷土の歴史、地理が書
かれています。要覧は村役場や学校図書として広く
村民に閲覧されることを希望しています。
この要覧は大正13年に書かれたものですが、主編
の村自治計画案は大正3年の計画案を基に記され
たものです。


当時の村長による緒言(巻頭言)です



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東谷要覧詳細解説2(村是・政策)

2019年12月25日

村是の三番目はその政策について記されています。
村が行う八つの政策が具体的に記されています。
ここで特筆されるべきは「教育」がその筆頭に書か
れていることです。当時決して裕福であったとは
思えない時代でその筆頭政策が教育であったこと
はその視点が将来を見越していることがわかりま
す。その内容も初等教育の充実を掲げ、何をやる
べきかを具体的に掲げています。勧業(産業政策
)の項目では農業の米作と果樹栽培を挙げ、米作
では取り組む具体的項目、果樹栽培では推奨す
る果樹(柿、ビワ、柑橘)を指示しています。現在
もこの三種類の果樹は東谷でよく見かけます。
ちなみに私の庭にも先代の所有者からの古い株
が残っています。このような村是の政策を読むと
身びいきを差し引いても当時の行政官の優秀さ
が読み取れます。 









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東谷要覧詳細解説1(詔書・勅語)

2019年12月23日

先日、自炊(PDF化)が完成した東谷要覧を少し
ずつ解説したいと思います。まず表紙の次に三つ
の詔勅が掲載されています。詔勅とは天皇陛下
のお言葉で「戌申詔書」「教育勅語」「民心作興
詔書」です。戌申詔書(ボンシン詔書)は日露戦
争後、戦争に勝利したものの戦争中の戦役や
増税などで疲弊した国民(当時は臣民)の心を
鼓舞し、質素倹約に努め一等国に列するための
道徳基準を示したものです。この詔書がきっかけ
となり、地方改良運動(今でいう地域おこし)が進
展していきました。当時の東谷村もこの精神に
のっとり自主で村の発展を期そうとしたものと思
います。教育勅語は言わずと知れた大日本帝国
憲法下の国家の教育方針です。今もその内容に
は賛否両論が絶えないですが、当時の東谷村で
はその精神にのっとり二つの小学校を建設し、隣
村と協力して高等小学校を作り教育に力を入れ
ました。このことは要覧の中で後に詳しく述べら
れています。民心作興詔書(ミンシンサコウ詔書)
は正確には国民精神作興詔書と言い第一次世界
大戦の世相を憂慮する政府やや関東大震災で不
安におののく民心を鎮め、先帝(明治天皇)の精神
に立ち返ることを大正天皇名で詔書を発したもの
です。教育勅語と国民精神作興詔書は昭和23年
の国会で無効決議がなされました。
上記の三つの詔書は当時の国家の大方針で東谷
村運営の方針として掲げられました。





表紙裏ページに三つの村是が書かれています。





三つの詔書と直後です。もう一つの村是の政策は次回に書きます。






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Posted by メドウおじさん at 20:48Comments(2)東谷要覧