原口九衛門さんを偲ぶ会開催

2023年03月15日

昨日は多少北風が寒かったものの
一昨日に比べればだいぶましでした
。強風の寒い北風の中興農会館で
毎年恒例の原口九衛門さんを偲ぶ
会で法要が行われました。九衛門さ
んの法要は東谷の古くからのお寺が
持ち回りの交代でお経をあげていま
す。来年から主催が興農会から東谷
資料館に移ることから私も初めて参
加しました。原口九衛門さんは明治の
初頭、当時は小笠原藩が豊長戦争に
負けた為、企救郡一帯は長州藩の管
轄になっておりその混乱から農政は
混乱しさらに当時数年続く飢饉で村民
は大いに苦しんでいました。それで当
時組頭だった原口九衛門さんが中心
になって庄屋など村役人と打開策の
話し合いをしていたのですが、話し合
いは進まず、業を煮やした一部の村
民が投石など騒ぎを起こし始め一揆
の火の手が上がりました。一揆勢は
三谷のみならず城野北方の農民を巻
き込み、さらには曽根方面までひろが
り一時は数千人規模まで膨らんだと
言われています。長州藩の郡代の役
人だけでは収まらず、長州軍の精鋭
までが出張り城野付近で双方の談判
に及んだという事です。幸い死者は出
なかったこともあり一応収まりがつき
一揆は解散という事になりましたが、
後日、事情聴取という事で東谷からは
原口九衛門さんを含む三名の方が聴
取拘留されその後日田に送られそこ
で裁判を経て、東谷の3名は原口九衛
門さんが死刑。残りの二人は懲役10年
と3年の刑が確定し原口九衛門さんは
即日刑の執行となり36歳の生涯を終え
ました。原口九衛門さんは決して一揆を
積極的に先導したわけでもなく暴発した
後も村役人などの死者が出ないようむし
ろ一揆を治めようとした節があります。
それでも数千人に及んだ一揆の責任は
誰かがとらねばならず一揆の責任者と
されても保身の弁明もせず、判決を受け
入れ日田の刑場の露と消えました。
原口九衛門さんの辞世と言われるものは
いくつか伝わっていますがそのうちの一
つが興農会敷地に建つ顕彰碑に刻まれ
ており今回碑石の碑文のリニューアルに
伴い綺麗に化粧直しされました。

原口九衛門さんを偲ぶ会開催

お化粧直しされた碑文です。

原口九衛門さんを偲ぶ会開催

原口九衛門さんと企救一揆の縁起の説明板が新たに設置されました。


原口九衛門さんを偲ぶ会開催


原口九衛門さんを偲ぶ会開催

除幕式と供養の読経の様子です


原口九衛門さんを偲ぶ会開催

原口九衛門さんの辞世です。華やかなボタンのようだと言われるより、自分は潔く散る山桜のようだったと
その名前を残したいという意味だと思います。(筆者解釈です)



同じカテゴリー(東谷(北九州)の紹介)の記事画像
東谷市民センター人権講座「原口九右衛門に学ぶ」
市丸の菅原神社
原口九右衛門さんを偲ぶ会
二市一郡新四国霊場等を語る会、貫水汲みツアー
日は恒例の餅つきです
三谷昔語り合本続巻のつづきについて
同じカテゴリー(東谷(北九州)の紹介)の記事
 東谷市民センター人権講座「原口九右衛門に学ぶ」 (2024-04-23 19:39)
 市丸の菅原神社 (2024-04-13 09:29)
 原口九右衛門さんを偲ぶ会 (2024-03-22 05:53)
 二市一郡新四国霊場等を語る会、貫水汲みツアー (2024-03-11 20:20)
 日は恒例の餅つきです (2023-12-27 19:25)
 三谷昔語り合本続巻のつづきについて (2023-12-25 08:37)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。