企救郡四国八十八か所霊場1番札所 地蔵院
2024年08月27日
二市一郡新四国霊場は明治26年に旧




企救郡一帯(言小倉北区・南区・門司区)
の四国お遍路霊場の写し霊場として発
足しました。発足当時は二市一郡の名前
でなく企救郡四国八十八か所霊場と呼ば
れていました。その後、明治33年、34
年ごろ旧小倉城下町が小倉市に、また門
司港周辺が門司市となったため、二市一
郡(小倉市・門司市・企救郡)新四国霊場
となりました。発足時の八十八か所の札
所は150年の時間の経過の中でお遍路
霊場からの離脱や、廃所、逆に前札や奥
の院などの新たな参加もあり、現状では
発足時と大きく変わっています。現在廃所
や欠番になっているところはもともとの企
救郡八十八か所の札所が多いようです。
また、企救郡四国から離脱し、二市一郡
新四国へ加わらなかった霊場の多くの札
番号は、新しい二市一郡へ引き継がれた
ところは少数で、どちらかと言うとそのま
ま二市一郡でも欠番になっているところが
多いです。二市一郡新四国霊場の現状
調査がほぼ終了したので、今後は旧企救
郡四国の霊場の現状を調査を進めます。
今回は企救郡1番札所だった地蔵院です。
今回は企救郡1番札所だった地蔵院です。
地蔵院は旧寺町(現米町のセントシティ隣
の野村證券)幕政時代から明治期にかけ
て米町一帯は寺院が多く、寺町と呼ばれ
ていました。ちなみに2番札所の東岸寺は
地蔵院の隣にありました)
現在地蔵院は米町にはなく、すでに廃寺
現在地蔵院は米町にはなく、すでに廃寺
になっています。小倉南区の北方に地蔵院
と言うお寺があり、米町から移転したのかと
思っていましたが、お寺の関係者の方の話
だと、米町にあった地蔵院とは別の寺院でし
た。米町にあった一番札所の地蔵院のこと
は、記録はほとんどありませんが、企救郡誌
にわずかにその記載が残っています。企救
郡新四国との関係では写し霊場を発足する
ときに関係者が地蔵院に集まり話し合った
ことが三波家文書に書かれています。ちなみ
に1番札所は二市一郡新四国霊場に引き
継がれず欠番になっています。10年ほど前
から二市一郡新四国霊場のことを調べ始め
た当初、1番2番の札所が不明でいくら探し
てもわからなかったのですが、今年の初めに
企救郡四国の全容が判明し前述のことも判
明した次第です。
現在の米町の野村証券の場所に地蔵院はありました

昔の小倉駅前の地図です。
