石原町の学校道

2015年07月13日

私の母校の新道寺小学校は石原町駅裏の小高い丘陵の
頂上部にあります。学校への通学路は普通石原町駅前を
通り踏切を渡って坂を巻くように登っていきます。当時小学
生の足で20分くらいかかっていたと思います。小学校への
道はそれとは別に「学校道」とよばれる、ほぼ直線に学校
へ向かうショートカットの道がりました。太平洋戦争前まで
は普通に通学路として使われていました。蛍橋を渡って川
沿いに左に進み、鉄工団地を横切り線路向こうの民家の
端の方を通り小学校へ一直線で進みます。そして小学校
の裏手、今のプールのあたりに行きつきます。石原町から
だとほぼ直線でいくことが出来半分の時間で学校につき
ます。普段はここを通ることはなかったですが忘れ物をした
時など何度か休み時間にこの学校道を通って家に取りに
戻った記憶があります。当然学校にはナイショでしたが見
つかったらきっと先生から厳しくしかられたでしょうね。線路
から先は今はもう全く使われていないようで道もはっきりと
残っていません。すっかり廃道になっています。東谷には
昔語りによるとこうして廃道になった山道がいくつかあり
ます。

石原町の学校道
石原町を通る旧322号線から石原町駅方面に行く道が現在の通学路です。


石原町の学校道

学校道は東谷川に架かる蛍橋を渡ってすぐに左折します。


石原町の学校道
最近護岸工事で川沿いの道はきれいに改修されました。


石原町の学校道

川沿いの護岸歩道の終点から農道を通り鉄工団地の中へ進みます。護岸歩道の途中から
田圃の畔を通って鉄工団地に入るとさらにショートカットになります。

石原町の学校道
現在は自転車工場になっている辺りを通ると更に近道でした


石原町の学校道
鉄工団地に入ると右折して石原町駅方向に少し歩きます。


石原町の学校道

鉄工団地の中を100mほど南に進みます。


石原町の学校道

工場の間の露地を上がると日田彦山線の線路に出ます。


石原町の学校道

線路の手前の土手は普段人がほとんど通らないので今の季節は夏草に
覆われてしまいます。



石原町の学校道

民家へ通じる遮断機のない踏切を渡ります。


石原町の学校道

民家の敷地の中をけもの道のようにわずかに痕跡が残っていました。


石原町の学校道

正面の土手に上がる道がわずかに残っています。


石原町の学校道
土手からさらに一本道を小学校方向に進みますが、ここから先は藪で
通れません。


石原町の学校道

写真の左から右へ道は進むのですが笹薮で通れなくなっています。


石原町の学校道

藪を抜けると左に民家が右がミカン畑になっていてその間に農道(学校道)が残っています。
昔は民家もありませんでした。畑は以前は谷地の棚田で、今もよく記憶に残っていますが
当時からすでに休耕田状態で春になると日本桜草が群生していました。今もう絶滅してい
ます。


石原町の学校道

民家が出来たので道も拡張されています。右の柵は谷地に水があふれると組み上げるポンプです。


石原町の学校道
旧学校道は小学校のプールの下まで続いています。きれいになっていますが今も
残っていました。プールのあった場所は昔は焼却炉がありました。




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この記事へのコメント
見入ってしまいました。
コメントがナレーションとなって脳裏を駆け巡り、イマジネーションが膨らみます。ありがとうございました。
Posted by e-tele. at 2015年07月14日 19:22
昔懐かしい道ですね(^^
私の母の実家が北方小学校の近くにあり、田んぼ沿いに小道がありました。
春は蓮華がたくさん咲いてその中をショートカットしていましたが
今はモノレールやら高速が通ってます。

道といえば、戦前?くらいに石原町から、山伝いに
頂吉まで行く道があったそうです。
(トンネルは通らず、里には一度も下りずに行く道だそう。)
もうだいぶ前に亡くなったおばあさんが居て
その人は戦前、頂吉小学校の先生をしていたとかで
毎日通勤に山道を使っていたそうです(^^;
歩いて1時間弱くらいとか。
叔父から聞いたのですが、今では考えられないほど
当時の人はすごい脚力をしていたのだなと思いました(汗
叔父が小さい頃に親戚のおじさんがやはり石原町の駅から
歩いて来ていたそうなんですが、帰るときはなぜか
トンネルを通らず山の中に入って行ったそうで、
そのほうが早い!と言ってたとか(^^;
もう、その道は無くなったのかなと思います。
Posted by ゆこむし at 2015年07月14日 20:27
e-teleさん、昔懐かしい道を先日たどってみました。半分は藪に埋もれてなくなっていましたが痕跡が残っていて懐かしかったですね。街中だととうに消滅していたでしょうしね。
Posted by メドウおじさんメドウおじさん at 2015年07月14日 21:43
ゆこむしさん、頂吉から石原町への尾根道の事は私も聞いたことがあります。幕末の長洲戦争時、小倉藩の島村志津摩が金辺峠から民兵を率いて高津尾まででばりゲリラ戦を展開したときに使ったという記録がありますね。今はもう廃道になっていると思いますが東谷と中谷、道原、頂吉をむすぶ 山道が何本もあったと聞いています。或る意味現在より両谷の住民の交流は深かったのかもしれません。この辺のことは三谷昔語りに詳しく書かれていました。
Posted by メドウおじさんメドウおじさん at 2015年07月14日 21:54
たぶん、幼稚園の頃、父の実家の竹山に行く道があったのですが
かなり山の奥で、谷沿いに丸木の橋やら通って行ってたのですが
あれがもしかしたらその道なのかもしれません(^^;
ばあちゃんがたけのこ掘りに行ってるのを迎えに一人で
山の中に入って行ったりしてましたw
今考えたら怖いですね(^^;
Posted by ゆこむし at 2015年07月15日 12:10
ゆこむしさん、それ、多分昔の尾根道だと思います。高津尾の宮山(稗畑山)と木下の亀甲の奥山には山城があったので東谷と中谷の境の尾根道は重要なルートだったのだと思います。
Posted by メドウおじさんメドウおじさん at 2015年07月15日 19:14
そうだったんですね!
うちの父の実家は、ちょうどトンネル越えたすぐの
左側の奥の谷間になります。
その奥に道があったそうなので、たぶん、頂吉にも
近いですね。
父が若い頃までは、馬を飼ってて、冬は炭焼きもしていて
木を切り出したり、山仕事もたくさんしていたそうです(^^
たぶん、そいういう道を伝って山を渡っていたと思います。
Posted by ゆこむし at 2015年07月15日 23:47
私が小学生の低学年のころまでは裏の山には炭焼き窯が残っていましたね。
中谷の高速道路わきの側道沿いに炭焼き小屋がありますね。よくわかりませんが個人の方が趣味でやられている雰囲気です。
Posted by メドウおじさんメドウおじさん at 2015年07月16日 18:09
実家近くの自転車置き場のすぐ横にも
炭焼き小屋があります。
近所のおいちゃんや弟たちで
伐採で木が出たら炭を焼いてますよ(^^
ちゃんと土で釜を作ってます。
Posted by ゆこむし at 2015年07月19日 10:32
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