三谷地区と小倉戦争

2015年03月25日

第二次長洲戦争で九州の幕府軍の中心として小倉藩は
高杉晋作率いる奇兵隊と赤坂・延命寺の戦いに敗れま
した。
小倉藩は自ら城に火をかけ秋月街道を田川郡香春まで
落ちました。小倉藩を率いる若き家老の島村志津摩は
中谷の高津尾あたりを第一次防衛線とし、最終防衛線
を金辺峠において長州軍に対し積極的にゲリラ戦を展
開し一時は小倉城も奪還するほどの見事な戦いを展開
しました。やがて長州軍との講和に成功し、小倉藩は
その後豊津藩として生き延びることが出来ました。
幕末の国内戦において城を枕に最後まで戦った会津藩
と比べ城を自焼させた批判もあったでしょうが私は家
老として小倉藩を講和に持ち込み存続させた、島村志
津摩の戦略眼・ゲリラ戦を展開した戦術眼はは大した
ものだと思います。

高津尾から加用方面です。左の山から西の丸山、東の丸山です。



高津尾集落の山並です。東谷と中谷の境をなす山並みです。


高津尾から見た郷原の山並です。

詳しい正確な場所は特定できませんが、高津尾の山並みを背に島村志津摩率いる小倉藩は
長州藩相手にこの辺りで積極的にゲリラ戦を展開しました。



小倉戦争の顛末は原田種純氏の「築・豊物語 ふるさとの明治維新」に詳しく書かれています。
(ふるさと文献刊行会)
  

Posted by メドウおじさん at 19:57Comments(6)東谷(北九州)の紹介三谷昔語り