森鴎外旧居
2014年01月10日
明治の文豪森鴎外が小倉に短期間ですが軍医として
単身赴任していた事はあまり知られていないのでは
ないでしょうか。明治33年6月から35年1月の
1年10ヶ月の短い間でしたがこの期間に名作、舞姫
の構想を固めたり即興詩人の翻訳を完成させたりし
ています。鴎外の小倉時代というのは軍医として左
遷されたと言われ鴎外自身も当初は落ち込んでいた
と言う話もありますが3年未満という比較的短い期
間で東京へ軍医部長として返り咲いたのですから必
ずしも左遷ということもなかったのかもしれません。
また鴎外自身もこの時期に九州の文化人と積極的に
交流し新聞のコラムなどに多数執筆しています。
当初は現在の小倉駅近辺の京町に寓しその後鍛冶町
に転居しています。現在、この鍛冶町の旧居は当時
のままに保存公開されています。単身とは言え思っ
たより小さな住まいで鴎外の簡素な生活ぶりが伺わ
れて好ましいです。明治期の小倉にはそのほかでは
日露戦争に名を残した乃木希典大将が師団長時代に
暮らした跡を示す石碑が現在のリバーウォークの堀
側通路に残されています。
単身赴任していた事はあまり知られていないのでは
ないでしょうか。明治33年6月から35年1月の
1年10ヶ月の短い間でしたがこの期間に名作、舞姫
の構想を固めたり即興詩人の翻訳を完成させたりし
ています。鴎外の小倉時代というのは軍医として左
遷されたと言われ鴎外自身も当初は落ち込んでいた
と言う話もありますが3年未満という比較的短い期
間で東京へ軍医部長として返り咲いたのですから必
ずしも左遷ということもなかったのかもしれません。
また鴎外自身もこの時期に九州の文化人と積極的に
交流し新聞のコラムなどに多数執筆しています。
当初は現在の小倉駅近辺の京町に寓しその後鍛冶町
に転居しています。現在、この鍛冶町の旧居は当時
のままに保存公開されています。単身とは言え思っ
たより小さな住まいで鴎外の簡素な生活ぶりが伺わ
れて好ましいです。明治期の小倉にはそのほかでは
日露戦争に名を残した乃木希典大将が師団長時代に
暮らした跡を示す石碑が現在のリバーウォークの堀
側通路に残されています。
紫川沿いの鴎外記念碑です。