板櫃川合戦場跡
2016年12月20日
板櫃川は河内貯水池を水源として北区の日明まで流れる
典型的な都市河川の一つです。中流域の東区三条、七条
辺りでは豊前国と筑前国の国境で国境碑も数多く残って
います。近年は河川整備が進み川床遊歩道や魚道も作ら
れ親水機能を高め市民が憩える場所になっています。
先日中流域の下到津付近を散策する機会があったのです
がその時、奈良時代初期、聖武天皇の御世に起きた藤原
広嗣の乱の合戦跡の説明板を見つけました。広嗣は天然
痘で相次いで亡くなった藤原四兄弟の式家の長男で当時
は大宰府の少弐として左遷されていました。広嗣は中央
の吉備真備や玄昉の政策に異議を唱え九州で兵を挙げま
した。この地で中央軍と合戦に及び大敗した広嗣は肥前
で捕らえられ処刑されました。広嗣の乱以降大宰府の長
官は兵を率いる権限は大きく制限されたそうです。
典型的な都市河川の一つです。中流域の東区三条、七条
辺りでは豊前国と筑前国の国境で国境碑も数多く残って
います。近年は河川整備が進み川床遊歩道や魚道も作ら
れ親水機能を高め市民が憩える場所になっています。
先日中流域の下到津付近を散策する機会があったのです
がその時、奈良時代初期、聖武天皇の御世に起きた藤原
広嗣の乱の合戦跡の説明板を見つけました。広嗣は天然
痘で相次いで亡くなった藤原四兄弟の式家の長男で当時
は大宰府の少弐として左遷されていました。広嗣は中央
の吉備真備や玄昉の政策に異議を唱え九州で兵を挙げま
した。この地で中央軍と合戦に及び大敗した広嗣は肥前
で捕らえられ処刑されました。広嗣の乱以降大宰府の長
官は兵を率いる権限は大きく制限されたそうです。
板櫃川合戦碑は八幡橋のすぐ横にあります。
八幡橋を渡ったさきに八幡社があります。小高い丘になっているので広嗣軍は
ここに陣を構えたのかもしれません。