山家先生と中谷高等小学校跡

2014年06月17日

昔語りをする会の足跡をたどるシリーズの第一弾です。
今回は中谷高等小学校の話題です。
江戸時代末期、日本の識字率は世界最高といわれて
いました。男子では武士階級はほぼ100、男子平均
でも50%を超えていたといわれます。この高い識字
率は武士層は藩校で漢籍を学び庶民は私塾や寺子
屋で読み書きそろばんを学ぶのが一般的だったから
です。明治になって時の政府は全国に尋常小学校
(当初4年)を作り東谷でも各集落ごとに私塾を引き
継ぐ形でスタートしやがて今の新道寺草学校と市丸
小学校に集約されていきます。一方では上級の高等
小学校は当初、今の小倉北区にしかなく上級で学ぶ
のは困難だったのを東谷の有力者山家家の方を中
心に奔走し今の加用地区に中谷、西谷と共同で中
谷高等小学校を設立しました。山家先生は初代校長
として教壇にも立たれました。このように教育熱心な
山家先生でしたが惜しいことに20代後半の若さで亡
くなられます。
のちに地元の方の意志でその遺徳を偲び立派な石碑
が山ヶ迫の方円寺さんの入口に設置されています。
加用地区は当時三谷地区の中心地で役場の出先
や商店などもあり栄えていましたが今は川沿いの静
かな集落でしたが先般報告した大規模な護岸改修で
住民の方の移転などもあり少し騒がしい状況です。
高等小学校自体の痕跡は全くありませんが当時の
資料からその場所は特定されています。

加用橋の向こうに見えるマンションの裏側あたりに中谷高等小学校があったと思われます

この場所に高等小学校があったはずですが跡を示すものは何もないのが残念です。

それにしても100年近く前に三谷で共同で高等小学校を開いたのは地域の誇りだと思います

  

Posted by メドウおじさん at 19:57Comments(2)東谷(北九州)の紹介三谷昔語り